昭和五十四年八月二十八日 朝の御理解
御理解第三十二節 「女が菜園に出て菜を抜く時に、地を拝んで抜くというような心になれば、おかげがある。また、それを煮て食べる時、神様いただきますというような心あらば、あたることなし」
お話しを頂いてそれをすぐ実行する、というても只、形の上だけの実行ではおかげにつながらん。大地を拝んだばってんおかげにならんとか、神様頂きますと言うて食べたばってん腹が痛んだとか、というような事になるわけです。教祖様が嘘を教えておられる訳はないのですから、そこのところの道理が本当に分かってから地を拝むのであり、そこんところが分かって神様頂きます、というのでなければ頂けんほどしの内容を頂くということ。
二、三日前の御本部の御大祭にお参りを致しました時に、丁度甘木の安武先生、親先生がいわゆる初代の御信心を語っておられた。或る時に、或る御信者さんが参ってまいりました。果物をいっぱい作っておる、ところが、或る日沢山果物を盗まれてしまった。でその事をお届けされた時に、安武先生が仰しゃつとる事は、「あんたも泥棒しとらんな」と仰しゃつた。それで気色ばんで「私は人の物を盗る様な事はありません」と、いうて「そうかな」と、「大体そんならその果物はだれが作ったとな」と言わっしゃつた。「そりゃ、私がちゃんと手入れして作った」「なら、あんたが手入れだけすれば、種を蒔きさえすれば出来るとか、その果物を果物として実らせてくださるのは天地の親神様だ、してみると、あんたはそれを黙って盗ってきょりゃせんか。わが作ったのだから、自分の作ったとだから、黙って持って来よりゃせんか」とね。「そうしてみりゃ、あんたは泥棒と同じじゃないか」と言われた。という話しを聞きました。素晴らしい、何と言うでしょうか、もう根本的なところを教えられたわけです。
だから、例えばこの御理解も、そういう根本的なところが分かってまいりますと、大地を、大地の御恩徳に対して、拝まずにはおられないのだし、その果物なら果物、野菜なら野菜の、頂きますという心になって来るし、勿論それを食する時には、神様頂きますという心が生まれてくる。そこに、あたりもしなければ障りもない、いうなら、おかげがあると仰しゃる、そのおかげにつながるのです。本当にね、その根本的なところ、言えと言うただけの事ではない、成程実感はなくとも覚える、頂きますという事を教えて貰う。不思議に頂きますとか、拝むとかの内容が、そのうちに分かって来るという事ですけれども、それがおかげになるとか、障ることないとか、決定的なおかげになるには、根本的なところが分かってでなければ、これは野菜、果物だけの事ではありません。もう一事が万事にその通りなんです。
私は、今朝方からお夢を頂いた。そのお夢が。
『或る方が、合楽の事を根も葉もないことを、悪口雑言しておるのを、私がジッときかせて貰っておる。どげなこつでん言うな、と思うて聞きよるわけです。そしてね、心の中にこれがあげなこと言いよるけん、もうそれこそ一言で参った、と言うようなことを言わしてもらおうと思うて、心の中でえらいその、この人がどう言うたら一辺で参ったと言うだろうかと、根も葉もない悪口を言うているのですから、それを私がおらんと思うて、一生懸命そこで話している。それで私は一言で、それを心の中ではもやもやしているわけですね、もう一突きで、相手のそれこそ心臓部にぐさっと、刺そうと言った言葉を自分の心の中に考えながら目が覚めた』
いや、本当に後味のわるいお夢ですけれども、事実、私共の心の中に、先日から私が、おかげを頂いて来たという事は、全ての事柄とか、物一切を生かして来た、いうなら、どういう問題と対決する問題であっても、もう真剣です。けど必ず峰打ちであった。いうならば、相手を殺さず生かしてきたと、神様から頂いてきたのですけれども。
そういう私の心の中にも、そういう悪口雑言を言われておる時に、心の中に一突きに殺す、例えば、心で殺すのが重い罪じゃとみ教えにあります。もう私は自分の心で、相手を一突きに殺そうとしておる、その、どう言うふうに言うて殺そうか、と心の中に思っておるお夢であって、まあだ、こういう心があるなと、自分で思うたわけですけども、もう本当に心がね、本当に改まり、またはいろんな場合に自分にはない、と思うとったけど、こういう恐ろしい心がある。こういう汚い心がある。と言ったようなものを、自分の心の中に詮索して参りますとね、あるわ、あるわ、おかげの受けられない、いうなら元がそこにあるんです。
それを、日々の改まりが第一と教えて頂く事によって、あ-こう言う心ではおかげにならんとね。いうならば今日、安武先生の例え話しをもって、有り難く頂くとか、または大地を拝んだとかと、拝む心があれば、おかげがあると仰しゃる。またはそれを煮て食する時、神様頂きますと言う心あらばあたること、障ることないと仰しゃつとられる。
それを、本当にそうだと分からせて頂いて、そう言わずにおられん、大地を拝まずにはおられない、というその心が、菜園に出た時、菜園を拝むのであり、または神様頂きますという心が、自ずと出てくるわけです。その根本的な、またその根本的なところを、私は今日のお夢の中に頂いたとこう思うです。
自分の心を、限りなく見つめさして貰い、自分の心の上にです、それこそ人に刃物で傷をつける、刃物で人を殺す、だからピストルを持っておる事も、いうなら刀を持っておる事も、それは人を殺すとか、そういう目的でなくて、自分の身を守るために持っておるんだ、という人もありますけれども、これは恐ろしいことです。もし刀やら鉄砲やら、自分の護身用にもっておる事は恐ろしい事です。もしそう言う場合に、それで射ったり切ったりする事になるのです。神様から守って頂くということ、護身用の刀では無くて、いうなら、私共は天地金乃神様の御守護を受けておるんだ、とそして成程、御守護の中にあると言うことを、実感出来るような信心にならなければいけませんね。でないと、本当にその刀やらピストルやらがです、自分は護身用と思うとるけれども、それで人を傷つけたり、殺したり、するような事に使われないとも限らない。
私共の心の中にも、同じ事が言えるのではないでしょうか。心で殺す、例えば、そういう鉄砲とか刀で殺したら、ちゃんとお上があって、それぞれにお仕置きに会うけれども、心で殺すのは神が見ておる、神様が見てござる。だから神様にみられても、いうならば、私共の心の中に突くような、刺すようなものを持っておってはおかげにならん。一口、口をいえば何となしにブスッと、やるような人があります。心にそういう突くようなものを持っているからです。それこそ水の流れるように雄弁で、それこそ相手のことをスパッと、斬ってのけるような言い方をする人があります。心に刃物を持っておるからです。それを円満に言うならば、それをお互いが有り難く言えたり、言ったり出来る事のために、神様の御守護を受けておる実感と言うものが、心の中になからなければならん。その根本のところをです、今朝からのお夢の中に感じます。
私は、もう一切を生かしてきた。言うならば、自分の心の中には突くものも、斬るものも持ってないように思うとったけれども、どういう手立てで斬ろうかと思うておる。その自分に気付かせて貰って、もっともっと深い意味での改まりがいるな、ということを思いましたが。そういう根本的なところが分かり、または根本的な天地の大恩、お徳、と言うようなものが分からせて頂いて、甘木の先生の言葉を借りると、泥棒せんですむ、おかげ頂きますと言う心あらばあたる事もない。神様頂きますと言うのなら頂くのだから、成程頂きますと言う心あらば当たる事ない。当たることも、障ることもない程しのおかげの世界がある。
私は、この三十二節の御理解は、本当に金光教的な信心だと思いますけど、只うわべだけで拝みます、頂きますと言うとるだけでなくて、今日聞いて頂いたような、根本的なところを分からせて貰い、悟らせて貰ろうて、そしてこの御理解になってくる時に、障らんで済むおかげがあると仰しゃるおかげに触れ、頂くことが出来ると思います。
どうぞ。